これは昔の話なのだが、ぼくは創価学会の活動に参加していた。ぼくの親や祖父母が創価学会員だったからだろう。
こどもだったぼくは、創価学会の活動に参加していることを特別に不思議とはおもわずに、おなじようなこどもが集まる会合に足をはこんでいた。そもそも創価学会なんてものを認識すらしていなかった。
はじめはおそらく、兄弟につれられて参加したのだろう。それがいつしか気付けば、ぼくだけが創価学会員の集まりに参加し、その意味もよくわからぬままに、
「なんーみょーほうれんげーきょーほうべんぽんだいに!にーじーせーそん・・・」と謎の言葉をとなえていた。
それはいまから30年以上もまえの話だ。なつかしい。
年齢にすれば5歳?6歳?それくらいから中学生の途中くらいまでの話だ。
しっかりとはおぼえてはいないが、ただなんとなくおぼえているのは、異常にしつこい青年部とやらの誘いに嫌悪感を感じ、とにかくその場だけを乗り切るためにだけにむりやりに誘いを断った。
どんな言葉だっただろうか。
おそらくはぼくよりもいくつか年上の人だが、それでもきっと20歳にもみたないあ若い人だっただろう。でも、まだ中学生やそこらのぼくからすれば、そこそこの大人に見えた。
その人の誘いを断るためだけに、そのとき人生でいちばんの労力をつかって、大きな声で断ったことだけはハッキリとおぼえている。
あの瞬間、こどもだったぼくにとって、それくらい忌み嫌うものであり、恐怖であったことはいまでもハッキリと覚えている。
それ以来、創価学会での活動はしなくなったと記憶している。それと同時に創価学会や日蓮宗および宗教への強い嫌悪感が芽生えた。
ぼくはあと数年で40歳だ。
あいかわらず個別の宗教に身を委ねるつもりはないが、発達障害の発覚や精神疾患をわずらった身としておもうのは、
・宗教によって精神的なもの(価値観とか現実逃避など)によって救われる人もいるのだろう。
・宗教によって物質的なもの(地位とか物とかお金など)によって救われる人もいるのだろう。
いや、そんなことはすごく当たり前のことだ。
お金で苦労する人もいれば、楽しい思いをする人もいる。仕事で苦労する人もいれば、楽しい思いをする人もいる。性別の問題で苦労する人もいれば、楽しい思いをする人もいる。障害で苦しい想いをする人もいれば、楽しい思いをする人もいる。宗教によって苦労する人もいれば、楽しい思いをする人もいる。
どれをとってみても、当たり前のことだ。
世の中には、その人の環境や、あるいは考え方、そのほかにもいろいろな条件によって、おなじ境遇になったとしても、それを苦しく感じる人もいれば、楽しいと思う人もいるし、チョーハッピーに感じる人もいれば、いますぐ死にたくなる人もいるのだ。
当たり前のことだ。
創価学会の会合に参加しても、日蓮の教えやそのすごさについてはなにも学ぶことはなかった。もしかすると具体的な「なにか」を教えてくれていたのかもしれないし、ただ単にそれをぼくがただ覚えていないだけなのかもしれない。
ただ覚えていることは「南無妙法蓮華経」をとなえればみんな幸せに死ねる。
ぼくが覚えているのはそんな内容だ。
そんなことだけを記憶してしまったぼくにも責任はあるだろうが、しかし、こどもだったぼくにこんな記憶を植えつけた宗教組織にも問題はあるだろう。
題目を唱えるだけでみんな幸せになる?
そんなこと、あるはずがない。だれだってわかることだ。
創価学会員みんなが日蓮の教えを理解し、崇拝し、題目を唱えているのか?そして、その全員がみな幸せを感じているのか?
こどもながらに、ぼくはそんなことを考えてしまった。すくなくともぼくの両親は、目に見える形で題目などあげていないし、まして幸せそうにはみえなかった。
まだまだ中学生やそこらだったぼくは、その時、青年部への勧誘を断り、宗教は無用のものだと理解したのだ。
ある程度、大人になったいま。宗教が原因で人が人を殺したり、罵りあったり、差別したり、無視したり、そんな現実を見たり聞いたりもする。
でも、宗教の必要性についてもわかったような気がする。詐欺師やクスリ、ギャンブルなんかに依存するくらいなら、宗教にたよったほうが良い可能性もある。
ぼく個人的には「南無妙法蓮華経」より「般若心経」のほうが、短いのに中身の濃い文章だたおもっているので、般若心経はむしろおすすめしたいくらい。
それはそうと、日本という小さな国が、ありとあらゆるものに神様が存在するという価値観をもち、宗教、信教についてもかなり寛容な国であり、ながく戦争をしていない国だと理解している。
特別、日本という国をとやかく言うつもりはないし、宗教が理由で争う国についてもとやかく言うつもりはないけれど。
あなたにとっての平和や幸福とはなんですか?
全員がおなじ価値観をもつことですか?違う価値観の人を排除することですか?
優位性を示すことですか?相手に恐怖心を抱かせることですか?殴り合うことですか?罵りあうことですか?殺し合うことですか?
いったい、なんなんでしょうか。ぼくも考えたいとおもいます。
ではでは。
※記憶をたよりに書いているため、単語などについては誤用の可能性がありますが、ご容赦ください。
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